開拓者の歴史

開拓者たちのあゆみ

栃木県開拓農業協同組合の組合員となっている開拓者は戦後の昭和20年11月に閣議決定された政府の緊急開拓事業に基づき、いわゆる山間僻地の国有林などの払い下げを受け、自立を目指して県内各地に入植しました。入植した経緯は様々で、満州からの引揚者の他、復員軍人や、農家の次三男など120カ所・8000haに3000戸1万5千人が入植しました。なかでも、満州から引き揚げてきた人達の苦労は想像を絶するものでした。

満州開拓と苦難の逃避行

昭和6年の満州事変により翌7年現在の中国東北部に満州国を建国した日本政府は、昭和初期の世界恐慌の影響で困窮を極める農村対策として、農家の二三男を移民させ、満州の開拓事業を行いました。
その移民数は32万人とも言われています。

移民達は厳しい自然環境の中満州の大地を開墾し、肥沃な土壌にも恵まれ少しずつ生活を確立して行きました。病院や学校など社会基盤も整備され、昭和16年頃には、農畜産物の収入により貯蓄額が当時で一戸平均2万円となる開拓団もありました。2万円は現在の金額に換算すると5千万円以上になります。


しかし、このような生活も昭和20年8月の敗戦で一変、開拓移民は難民となり、苦難の逃避行が始まりました。
それは突然の出来事でした。一方的な日ソ中立条約の破棄によって、ソ連軍の侵攻が始まったのです。当時成年男子は根こそぎ動員によって兵役に取られ、村に残っていたのは高齢者と婦女子がほとんどでした。移民達は身の回りの物と現金及び携帯できる武器を持ち、最寄りの駅からの避難を目指しましたが、混乱の中で連絡網は分断され、全員が汽車に乗ることは出来ず、乗り遅れた人達は歩きでの避難を余儀なくされました。
その距離は住んでいた地区にもよりますが、1000km以上歩いた人達もいました。ソ連軍の空襲や、匪賊の襲来に遭いながら昼夜を問わずに山野を逃げ歩く中、乳幼児や高齢者など多くは途中で力尽き、暴徒に襲われ命を落とす者もいました。途中現地の中国人にやむなく子供を預ける親たちもいましたが、その預けられた子供達が残留孤児達です。絶望して集団自決した人達もおり、その逃避行は悲惨を極めました。兵役に動員された成年男子の一部はシベリアに抑留され、強制労働の中多くの命を落としました。
ソ連軍が南下する前には、移民達を守るべき精鋭と言われた関東軍の姿はほとんど見られられなかったそうです。
こうして開拓移民達は、大切な家族や仲間と全ての財産を失い、理想郷の建設を目指した満州開拓事業は水泡と化したのでした。

戦後ゼロからの再出発

戦後開拓に希望を見いだして入植した開拓者を待ち受けていたものは、厳しい気候と条件の悪い土地でした。
軍の飛行場跡地など平坦な場所もありましたが、多くは山間の森林や原野でした。立地条件は違っても、いずれもこれまでの開拓事業でも顧みられなかった不毛の土地でした。なかでも冬の気温がマイナス20度にもなる標高1000m以上の高冷地に入植した人達もいました。
鍬を手に人力での開墾作業は大変な労力と時間がかかりました。作物も耕作に適さない酸性の土地が多く、冷害もあって当初は収穫もままならず、出稼ぎや炭焼きなどで現金収入を得ながら、食いつないでいきました。
水道・電気・住宅など生活基盤も全く無く、道路も未整備の状態での生活は困難を極めました。入植してしばらくは共同生活で、(開拓)組合の多くでは、土木作業で現金を稼ぐ班や農地を耕す班、炊事班などに別れそれぞれ懸命に働きました。
この間、国・県など行政の支援により道路や水道の整備・電気の導入が徐々に行われ、生活の基盤を整備するとともに、土壌改良や農機具の導入など営農面でも助成を受けながら、自立経営を目指しました。

不撓不屈の開拓精神

不屈の精神で大地を開墾してきた開拓者たちは、試行錯誤を繰り返しながら酪農を初め野菜・肉牛・養豚などそれぞれの経営を確立させて行きました。
条件の悪いところを逆に利用し、昭和41年には高原大根が、48年には高原ほうれん草が国の野菜指定産地となるなど独自のブランドを築き上げました。指定を受けた地区は標高700m~1200mの高冷地です。
戦後直後に入植した初代の不撓不屈の”開拓精神”は2世、3世へと脈々と受け継がれ、次代の日本農業の中核となるべく、日々精進しています。